shamani1003's diary

統計と経済、ときどき美術のブログです

日曜日の話しー 特定秘密保護反対と原発反対デモから分かること

特定秘密保護法案に反対するデモは、一つ一つが万人規模となり、しかも全国で同時多発した。参加している人物には若い人もいるが、TV取材で画面に現れる人はおそらく年齢60歳代であろうか。その昔、沖縄反戦デー、さらに遡って60年安保反対デモに参加した「歴戦の勇士」も混じっているかもしれないなあ…と、そんな感想をもちつつ観ている。

団塊の世代。かつて日本経済を支え、二度の石油危機を見事に乗り越えるも、不良融資に暴走し、遂にはバブルを演出したが、その後の20年という時間の中で、消え行きつつある老兵たちの悲哀を感じさせてもいた。昭和も遠くなりにけり。そんな忘れがたい世代であるのだが、ここにきて格好な老後の生き甲斐を見つけたか。正直、そんな風に感じています。

ただ特定秘密保護法案で戦前期の暗黒のような日本に逆戻りするのか。小生、どうしてもアナクロニズム、というか風車に突撃した老騎士・ドンキホーテを見る思いがするのだなあ。敵はそこにはいませんぜ、旦那ガタ…。

 
Don Quixote and Sancho Panza by Honoré-Victorin Daumier, c. 1866-68
 
『おのれ、許せぬ』と前進突撃するのはよいが、声なき民を哀れなサンチョパンサにしてはなりませぬ。彼らは決して愚かではございませぬ。上のドーミエのように、ついて行ってはいるが、ちゃんと生き様は見ているのでござんすよ。
 
それより気の付いた事。反原発デモと比べて、今度の特定秘密保護反対デモの何と盛んなことであろうか。その広がり、激しさ双方において、反原発意識をはるかに上回る動員力を反国家機密は持つのである。実のところ、同じ民主主義国家として価値観を共有するはずのアメリカ、イギリスなどから日本が機密情報を提供してもらう場合、「これは機密にせられたし」と要求があったとき、「厳重に秘密にしましょう」と。そんな受け皿になる制度を設けるだけの話しである。相手が秘密にしておきたい情報が日本に渡ったら「知る権利」が最優先されるのだとしたら、相手は教えてくれないでしょう。そりゃあ、日本の損だ。
 
それに対して、エネルギーとして原発をどうみるかは切実な問題である。福島第一原発の事故で16万人の人が避難し、2年半たったいま現在も9万人余の人が自宅に戻れないでいるのである。この現状をみれば、理屈はぬきにして「反原発脱原発」を意識せざるを得ないのが人情ではないかと。小生はそう思うのだ、な。ところが、日本全国の人は反国家機密には燃え上がっても、反原発の方はそこそこ。これが現実であることが再確認できた思いがする。(参照:福島民報、2013年12月8日
 
まあ、背に腹は代えられんもんね。原発を全面放棄するのは、ちょっと無理かもしれんよねえ…。僕たち、私たちの暮らしってものもあるもんね。電気料金、これ以上あがると困るもんね。いろいろ事情があるわけでござんしょう。なんだかんだ言っても、この辺りに国民の最大公約数的な意識が浮かび上がってきた。そんな気持ちでいるのである。

 

戦前期の法律で裁かれた人物をどうみるか

下に書くような立場を記す事が小生わりと多いのですね。

 

歴史についてみんなの共通認識に異を立てる事が大好きです。なにしろへそ曲がりですから。

 

戦前期日本の「国のなりたち」はよく見なおした方がいいのではないか

 
明治時代は45年も続いたが、時代の流れ、国民の意識でいくつもの期間に細分されるという。詳しい事は忘れたが、誰がみても第1期は西南戦争までの10年間(M10)、次は大日本帝国憲法(M23)までの第二期13年、それから日露戦争終了 (M38) までの第三期15年。最後に明治から大正へと移るまでの第4期7年間である。

戦前期日本が、いわゆる「帝国主義的拡大」を国策としはじめたのは、いつ頃からだろうか、と。時々、勉強し直したくなるのだが、確かにこの辺は相当細かく文献や資料を読み込まないと中々答えは出てこないだろうとは思う。たとえば、しかし司馬遼太郎などの歴史小説では、日露戦争ですら、帝国主義的な領土欲には汚されておらず、比較的純朴な動機に基づく自衛のための戦争であったと叙述している。とはいえ、軍部の独走はその前の日清戦争から川上操六など参謀達が立案した戦略の自動実行システムとして既にうかがわれるわけである。また、いかにアメリカなど西洋諸国との了解があったとはいえ大久保利通による台湾出兵(M7)は、「自国民保護」を名目とした一方的な海外派兵であることに違いはなかった。日本国民が自由経済システムの下で貿易を拡大し、自国民の安全が脅かされれば軍隊の派兵が当然許されるのだという基本認識があるわけで、それこそが「帝国主義」なのだと認識するなら、明治維新直後の段階ですでに日本は「帝国主義的」であったと形容されても仕方のない面はある。

ただ父などもそうであったが、昭和前期の平均的な日本人は満州も朝鮮も台湾も南方諸島もすべて日本の領土である事に誇りをもっていたようだし、それでも日本は英米とは違って「持たざる国」であるという貧窮の感覚がひろく共有されていたようなのだ。そんな満たされない物欲というものを明治の日本人がすでに持っていたというのは、ちょっと信じられないのだな。ま、どちらにしても、1945年の敗戦を契機に「領土拡張=善」という意識は、まったく否定されてしまったわけであり、日本がアジアを解放したというより、これはそもそも時代の進歩に沿った動きであり、日本が能動的に動いて歴史の進歩を加速させたのだと小生は思う。動機に「利己的欲望」があったにせよ、もたらした結果はアジアにとって利他的であった。そんなところじゃないだろうか。

同じ結果を求めるなら、もっと賢明な行動戦略があったであろう。そういうことだと思う。

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伊藤博文を暗殺した安重根をめぐって日本と韓国政府が主張と批判のやりとりをしている。韓国の中央日報などでは結構大きな扱いをしている。
朴槿恵(パク・クネ)大統領が、安重根義士の石碑設置について中国側に感謝の気持ちを表わしたことに対して日本政府が19日「安重根は犯罪者」として極度の不快感を表わした。菅義偉官房長官はこの日の定例記者会見で「我が国は安重根については犯罪者であることを韓国政府にこれまで伝えてきた」として「このような動きは両国関係のためにならない」と話した。

彼は記者の関連質問にこのように答えた後「韓国には伝えるべきことについては明確に伝え、私たちの主張をしていく」と明らかにした。朴大統領は6月に北京で行われた韓中首脳会談で安義士が伊藤博文を射殺したハルビン駅に石碑を設置するよう協力を求めた。さらに18日、青瓦台(チョンワデ、大統領府)で楊潔チ国務委員に面会して関連の議論がうまく進んでいることに謝意を表した。これに対し日本が不快感を示したのだ。

日本政府の高位関係者が公開記者会見で「安重根は犯罪者」という表現を使ったのは初めてだ。日本メディアも朴大統領の発言に関心を示した。NHKは「中国との連帯を強化して日本に圧力を加えようとする意図があると見られる」と分析した。一部の右翼メディアは関係者の話を引用して「ハルビンが位置する東北3省地方は少数民族が多くて民族運動をあおる行為は中国が避けたがっているため、韓国を味方にするためのリップサービスに過ぎない」と報道した。

外交部の趙泰永(チョ・テヨン)報道官は「日本の帝国主義・軍国主義時代に伊藤博文がどんな人物であったか、日本が当時の周辺国にどんな事をしたかを振り返ってみれば、官房長官のような発言はありえない」と反論した。

一方、中国の洪磊外交部報道官は定例会見で、安重根義士について「歴史上の有名な抗日烈士であり、中国でも尊敬されている」として韓国を援護した。
(出所)中央日報、11月20日

伊藤博文自身は、韓国を植民地にすることの愚をよく理解していた政治家であったそうだ。 日本では、トップであってすら個人的に考えるように自由に政治を行えるわけではなかった。伊藤も立場を異にする多くの政敵とのバランスの中で政治をしていたに過ぎない。意図と結果が違ってしまった一面もあるだろう。

ただ上の記事を読んで思うのだが、「安重根は犯罪者である」と現代日本の内閣のスポークスマンがあっさりと言い切っていいのだろうか。戦前期日本の法制度の下で「犯罪者」というなら、戦後の政治家・吉田茂も投獄された事がある。それは時代が違うというなら、拷問で殺害された大杉栄も「犯罪者」なのか、小林多喜二は「犯罪者」であるのか、あるいは大逆事件の犠牲となった思想家・幸徳秋水は「犯罪者」であるのか?

『当時の日本側の法制の下では犯罪者として裁かれた人物であります』

言えるのは、高々うえのようなことくらいであろう。まして、戦前期日本のありかたを自省する事から再出発したのが戦後日本である。戦後日本の総決算は進歩であるべきであって、先祖帰りであってはならない。そもそも戦前期日本を構築した明治維新ですら、日本人全体が参加し納得した国造りではなかったのだ。

安重根という暗殺者一人の見方にも、深い歴史的洞察とは真逆のとってつけたような形式論理を主張するしか芸がないのは情けない。その背景には、幕末から倒幕・明治、そして敗戦に至るまでの近代日本を、経済発展・領土拡大の成功とは別の視点から—当然だろう、結局は幕末より国土を喪失し、ぬぐえぬ歴史を作ってしまったのだから―見直すことをほとんどしていない。こんな一面的な自己認識もあるのじゃないかと、小生、思っているのだ。
 

 

小生は「改革」は嫌いです。とうことは保守的なのでしょうね。しかし、こうして自分で書いたものをみると、いまの「保守的政権」にはどうも納得できない。そんなホンネが見えちゃいますね。

 

つくづく自分は国民そろって箱弁当的な行動が嫌いな人間のようです。へそ曲がりです。

精緻にして複雑な政策だから良いのではない

こんな風に書くと、「気に食わない」というので目をつけられて、好機があれば無き者にする。そんな攻撃への動機を与えるのでしょうかねえ・・・

 

・・・

先日の投稿のあと、大手マスコミもTPP交渉でアメリカが要求している関税全廃について報道するようになった。

この報道と同じタイミングで内閣府の浜田参与がコメの自由化を容認するべきだと講演をしたかと思えば、農林水産省が無関税枠拡大の検討に入ったなど、いろいろな情報が出てきている。

確かに毎日新聞は世論調査の結果として、関税の一部撤廃は理解が得られつつあると報道している。 TPP交渉に参加すること自体に反発する空気が支配的だった数カ月前に比べると何という変化だろうか。

 
毎日新聞が9、10両日に行った全国世論調査で、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉を巡り、これまで「聖域」としてきた農産物などの分野の関税撤廃について尋ねたところ、「一部でなくすのはやむを得ない」との回答が75%に上った。自民党支持層でも80%が「やむを得ない」としており、関税を一部撤廃することについては理解が広がりつつある。【高山祐】 (注)11月12日


まあ交渉だから、こちらがどこまで譲歩する覚悟があるのか、相手に悟られるのは下の下策である。日本側がどれほど複雑巧緻な作戦を検討しても当方の自由である。とはいえ、複雑巧緻な作戦案は、往々にして「絵にかいた餅」、「机上の空論」であって、要するに関係者の自己満足であるのが常である。論理を戦わせるべき交渉に単なる「いやだ」という感情的反発を持ち込んでは、もはや交渉ではなく、「いまのやり方の主張と防衛」に過ぎない。交渉はそこで実質終わりである。

官僚の自己満足を形成するのが外交交渉ではあるまい。

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そもそも大きな利益が日本全体にあるのかないのか、その説明がしにくいのであれば、それほどの利益はないということなのだ。大きな利益があるのであれば、誰にでもわかる説明の仕方がなければならない。

政府は、TPPを結ぶことが日本にとって大きな利益になると考えているのか、そうでないのか?そろそろ国民多数の利益と一部国民の損失について語り始めるべき時だろう。

日本の家庭のエンゲル係数(=食費の割合)は、一人当たりGDPが日本の半分しかない韓国に比べてもなお高い。それだけ日本人には暮らしのゆとりがないと言える。これは治せるのだ。この事実はそれだけでも日本の政治問題になってしかるべきであるー 不思議にもなったためしがないが。これが小生の立場だ。

ブログの投稿は生鮮品なんだろうか?

ブログは頻繁に ― 中には月に一度、四半期に一度位のペースで書いているブログも多いわけですが ― 投稿するものですから、その時に関心をもった事柄が足跡のように残されて行くものです。そこが面白いのですね。後になって、順不同に、単に多くの人が読んだからという理由で、並べ替えて、転載したとしても、それは気の抜けたビールのようなものである。そうも言えると思うのですね。

 

たとえば鮮度の高い投稿というのは以下のような記録でしょう。

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TPP − 合意直前の紛糾か、それとも決裂の始まりか

 

本日の道新1面には(トップではないものの)TPPについて以下の報道がある。

TPP、米が関税全廃要求 日本受け入れ拒否(11/15 07:05)

 環太平洋連携協定(TPP)交渉で、米国が日本に対し、コメなど重要5農産物を含む全品目の関税を撤廃するよう要求していることが14日、明らかになった。日本は拒否し、重要5農産物などの関税維持に理解を求めているが、米側は長期の撤廃猶予期間を設けることを譲歩の限度としているもようで交渉は緊迫度を増している。
 交渉関係者によると、米国からの関税全廃を求める通知は今月上旬にあり、続いて行われたフロマン米通商代表部(USTR)代表と甘利明TPP担当相との電話会談や、来日したルー米財務長官と甘利氏の12日の会談でも強く迫られた。日本側はその都度、受け入れを拒否したという。
 日本のTPP交渉参加に向けた4月の日米事前協議では、米国は重要品目の自動車について輸入自由化を認めたものの、関税の撤廃時期は最大限に先延ばしすることで合意した。米国は日本に対しても、関税全廃を受け入れれば、品目によっては10年を超える撤廃猶予を認める意向を伝えているとみられる。<北海道新聞11月15日朝刊掲載>

ところがこんな情報は、今朝の日経にはなく、読売にもない。Yahoo! Japan ニュースのTPP関連一覧をみてやっと見つけた。TV朝日系(ANN)で本日の朝5時56分に配信している。TV局がニュース源というのは妙だ。ネット上の朝日新聞DIGITALにもそんな情報はない。 

どこから流れた情報なんだろうねえ……と。 
ただ、内閣参与をしている経済学者・浜田宏一氏が、昨日以下の講演をしている。 


TPP、コメ聖域化は駄目=安倍首相の政治力に期待-浜田参与

安倍晋三首相のブレーンである浜田宏一内閣官房参与は14日、秋田市内で講演し、環太平洋連携協定(TPP)交渉に関連して「コメをカロリー確保のために必ず保護しなければならないのかが、今、問われている」と、農林水産省のコメ政策に疑義を呈した。その上で「TPPがうまく働くには、コメを聖域にしては駄目だ」と、交渉進展には日本が関税維持を主張するコメの自由化が不可欠との認識を示した。
 さらに「農協や農水省は抵抗するが、それを取り仕切ることができる政治力が、首相には求められている」と強調。「日銀の抵抗を振り切って、正しい経済政策に変えることができた首相だ」と安倍首相の政治決断に期待を示した。(時事ドットコム、2013/11/14-20:45)
これは時事通信が流しているが、道新の記事は更に具体的である。 
どうなっているのでござんしょう? 
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出所はよく分からないが、アメリカが自動車関税撤廃を決意し、日本は聖域5品目の関税撤廃を決意して、日米が原則合意するなら、世界の経済学者・エコノミストは拍手喝采するであろう。たとえ完全実施までの猶予期間が30年かかるとしても、関税の全面撤廃合意という結論は、それだけでも十分に日米はじめ太平洋周辺国家群の今後の「象徴」たりうるだろう。
 

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今日書くから面白い、ひと月後で書いてもつまらないことの典型でしょう。

 

ブログとは、WebLogの略称でロッグ、つまりは航海日誌、作業日誌のようなものであるのが本来の姿です。なので、後になってから切り貼りしたり、転用したりするのは、当たり前というか、そのための覚え書きであってメモにすぎないはずなのです。

 

ところが、メモが書き並べられている、その雑然とした全体の内容、次々に話題がとりあげられているその順番、それ自体から自分のその頃の思考回路が再現できて、歩いてきた旅路全体が思い出されてくる。書いていない事まで思い出されてくる。どうもそんな役立ち方をする。むしろそんな風に役立ってほしい。だからブログを書いている人が多いかもしれないなあ。そう思ったりするのですね。

 

まあ、永井荷風の「断腸亭日乗」は日記文学でもありますが、拾い読みをしても、たとえば関東大震災の下りなど、興奮致します。人はいろいろ、ブログもいろいろということでござんしょう。

ブログ-記録より、むしろ生きている庭づくりだろうか

スパムコメントや管理者側の一方的な投稿削除にストレスが高じて『統計+経済学+趣味のブログ』を一般公開から限定公開にしました。当分の間はそうしようと思っています。

 

しかし、あれなのですね、一度世間に自分の文章を公開する面白さを経験すると一切閉じられた空間で、ただ書き続けるのが下らなく感じるようになるのですね。子供が幼子であったころからずっと日記を手で書き続けたものですが、その時はそんな気持ちは感じませんでした。ブログには社会的露出への衝動を心の中に形成する働きがあるようです。「知ってもらいたい」、「自分だけの思いなのか、ほかに同じ人はいないのか」と、そんな動機なんでしょうか。だとすると、ブログというのは孤独というのが、社会階層の上下を問わず、あらゆる個人の心を包むようになった現在という時代背景だから生まれてきたツールである。そう思ったりもしています。

 

そういうわけで、いまは閉ざしている古いブログで多数の人が閲覧した投稿をここで公開しておこうと転載したりしているのですね。ところが、気が付いたのですが、あたかも移植された草花のように、生き生きとしていた前の文章はここではどうも落ち着かない、というか血が通わない化石のような文章として自分の目に入ってくるのです。たとえば以下は、古いブログでは閲覧数ベスト2の投稿です。

 

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なじみ深い問題 ー 家門の継承

 
日経新聞の連続小説のタイトルは今は「黒書院の六兵衛」で今日が第54回。浅田次郎の作である。幕末、将軍の御側近くで護衛の任に当たる書院番士である旗本・的矢六兵衛が、実は借金苦から旗本株を金に換えて身を隠した前の当主の入れ替わりであるという話しにさしかかっている。

家門を継承し発展させていくのは、結構、大変な事業であり、日本人は跡目争いというものに興味を刺激される傾向をもっている ー というか血統に関心をもつのは(たとえゴシップ的興味にすぎないにしても)世界共通の現象であろう。新しくはダイエーを創業した中内家の没落が世の注目の的になった。古くは天皇家の皇位継承争い。

本日の朝刊に女性宮家創設につき二案が両論併記される方向になったとのこと。一案は三人いる内親王に限り宮家を一代限りで創設し、子は皇位継承権をもたないというもの。もう一案は、宮家は創らず、結婚による皇籍離脱の後も内親王の称号を使用させるというもの。この案については更に他の宮家の女王にも称号の使用継続を認めるかどうか、検討される見込みだ。

どちらにしても皇位継承権を新たに取得する人物は現れない。ここがミソである、な。ここを論ずると、議論が対立してまとまらない。そう踏んだのだろう。

しかし、意味がないよね。誰しもそう思うのではないか。次世代の男子継承者が悠仁親王ただ一人である点が懸念されていて、だから検討されている事柄であるのに、皇位継承者を増やさないという解決のしかたがあるものか。無意味である。単に女性に称号を与え、一生皇族として働かせる名分を作っているだけである。内親王は行動の自由を奪われるだけである。文字通りの<ご都合主義>。どこに生まれるかは運命が決めるが、それにしても悲惨ですな、こりゃ。

五代将軍徳川綱吉は子に恵まれなかったので、紀州藩に嫁がせた娘・鶴姫の夫である徳川綱教を次期将軍にしようとした。子ではない娘婿である。その時、綱吉には若くして世を去った実兄・綱重の遺子である甲府宰相綱豊がいたにもかかわらずである。これには流石に水戸藩のご隠居である徳川光圀が反対したという。それはそうだろう。血のつながりの濃さによって継承していくのが<世襲>というシステムの本質なのだから。しかし、もしこれが、娘・鶴姫の子であったら水戸黄門も反対しきれなかったのではないか。これが<女系将軍>というものだ。結果としては、肝心の紀州藩主綱教が死んでしまい、兄の子である甥が六代将軍家宣になるのだが、こうしてみると幕府内に<女系将軍>が後を継ぐという事態にそれほどの拒絶感はなかったのではないか。そう思わせる逸話であろう。

確かに江戸幕府は本家と血のつながりが薄く、単に能力があるという理由で徳川慶喜が本家を継いだ時点で、実質的には滅んだと語る向きが多い。正統は確かに大事だ。しかし家門の継承をはかるには、絶えないように工夫をこらして、広く認めておかないと、いつか絶えるのが確実である。
 
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浅田次郎の「黒書院の六兵衛」はもう単行本として発行される頃です。上の文章は、まだ新聞に連載されている最中に書いたのですけど、それをいま自分でまた読んでみても、もうその時とは考えることが違っている。だから何でしょうかねえ・・・ぴんとこないのは。それでも、こんなことはある。昔の作家が残した日記や手紙をいま読んでも、それはやっぱり面白いものです。有名な人物が世間に与えてきた印象とは違った心の中が知られる感じがして、同じ人間をみる感じがするのですよね。
 
どうも自分がかいた古い文章をどう再利用するか、その扱い方が分からずにいます。

 

日曜日の話しー国と家族、公と私

限定公開中の『統計+経済学+趣味のブログ』では、毎日曜日に「思い出話し」を語る事にしています。小生、20年程前に北海道に移ってきて、あまり昔話しのできる人が近くにいないのですね。だから小生がいなくなると、愚息たちが昔のことを知りたいと思っても分からない、だから書いておこうというのが、日曜日の話しの理由です。日記のようなものなのですが、同じ世代で同じような感想を持っている人もいるかもしれません。そう思うと、時には読んでもらえるようにしておきたい。これが今日書いた分です。

 

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昭和・戦前期と戦後・高度成長期という時代は、映画・ドラマを制作するとき、いま最も人気のある時代背景になっている。

高度成長は、小生自身、少年ではあったが毎年のように新しい耐久消費財が家の中に入ってきて、みるみる生活水準が上がっていったという体感が残っている。その時代を生きたという実感があるので、その時代が真に豊かであったとも思わないし、弱いものいじめもあったし、喧嘩、暴力もあったことも知っている。その時代を生きた人たちの心理を知っているので、いつタイムスリップをして町の雑談に入ろうと、話しにはついていけると思う。

それに対して、戦前期、それも戦争中となると、その時代を生きた人たちの心理や暮らしの感覚はまったく想像もできないのだ。家族の一人に召集令状がきて、町の人が「万歳」と唱えながら見送る時の思いや、戦死広報を受取り「名誉な事でございます」と口でいい、あとで泣くなどという心理は、とてもじゃないが正しい事ではないと思うのだ。政府による耐乏要求になぜ反発しなかったのか、なぜ暴動が起きなかったのか、それが不思議でならないというのが、理屈じゃないかと思う。

実際、第一次大戦におけるドイツの敗戦のきっかけは、キール軍港の水兵達による反乱であり、その遠因は司令部が自殺的な出撃命令を出したからである。その反乱をきっかけに大衆蜂起が全土に広がり、ついに皇帝カイザー・ヴィルヘルムが亡命し、ドイツ帝国は崩壊に至った。このような顛末は、ドイツだけではなく、海外では普通一般に観察されているパターンである。なのに日本ではなぜ無茶な戦争に国民がずっと従って行ったのか?こういう疑問がある。その当時、生きていた人の心理をリアルタイムで再び回想しようにも、それは難しいのだ。

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息子が二人いるが、下の方はいま東京で司法修習をうけている。間もなく修習も終わり勤務につく。忙しい職業だから、以後、北海道に帰る事は一年に一度もあればいいほうだろう。「お前は、社会の役に立つように、どうか使ってくれと差し出したと思っているから、あまり北海道に帰れないからと言って、おれ達のことを心配するんじゃないぞ」と。まったく、こんな風に話す小生の心理と、「お国のためにご奉公できた倅もさぞや本望でございましょう。どうも有り難うございました」と息子の死亡通知書を受け取る親とどこが違うだろう。

この春、いわきに住んでいる弟を訪れた時にこんな風な話をした。

才ある息子は、国家有為であるが故に、社会にとられて、不孝をなし
才なき息子は、国家無用であるが故に、親元にとどまり、孝をなす

上の息子は、今の時代流行の「非正規雇用」の暮らしを続けている。四年制大学は出ているのだ。それでもアルバイトでもう長い間、単純労働者としての生活を続けている。趣味はプロスポーツ観戦であり、芸能ではAKBが大好きで一人暮らしをしている市内のアパートの自室にはポスターを壁にはって鑑賞している。そんな生活ができれば、一応の欲求は満たされ、満足しているらしいのだから、よくいえば無欲恬淡、悪く言えば向上心のかけらもない。「評価」するとすれば、そんな風な「評価」なのだろう。しかし、上の息子は親の心配はともかく、ずっと近くで暮らし、仕事が休みの日には食事をともにしたり、多忙ではないので家に帰ればカミさんと携帯で話しをする。そんな風にやっていくだろう。結局、才能も意欲も根性もないが、親も子も幸福に生きているということになるのかもしれんのだ、な。

国に貢献することで幸福に至る事はないと小生は思っている。その意味で、幸福は自分自身かごく少数の家族、近親者だけのことをさす。近代社会は「幸福の追求」を全ての人が生まれながらに持っている基本的な権利であると認めるところから出発した。幸福追求の自由は、本来、お国の役に立つ事ができて本望でございましょう、と。こういう価値観とはまったく相容れないものである。こう考えたからといって、小生が無政府主義者であることにはなるまい。

 
シュピッツヴェーク(Carl Spitzweg)、貧しい詩人


大事な価値は、一人一人の心の中にあり、自分の周囲の社会という場に自分をこえる規範があるのではない。こういう理念からはじめてイノベーションは起こりうるのであって、はじめて社会的な進歩を実現できるのだと思っている。遠くをみて暮らすのは邪道である。幸福である可能性は、元来、すべての人に平等に与えられているものだと思う。それがプチブルで、小市民的欺瞞だというなら、「言わば言え」なのだな。

 

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 「自由」というとき、思想の自由、表現の自由、結社の自由、行動の自由、等々と色々な段階があります。何をやっても構いなしという自由放任が、社会的に許されないのは、誰でも知っています。しかし、何をやっても自由だと思って、やりたいことをやったら刑罰を課される。刑罰が怖いからやりたいことを我慢する。それではその人は善人であるには違いないが、幸福とはいえないのではないですか。むしろ、刑罰が怖いからではなく、その人がもっているモラルによって、自分の行動を自ら決めるとすれば、その人は思うように生きているのと同じです。自らが自分の行動を決める。決められる。決めるべきだ。だから人は自分の行動に対して「責任」をもたなければならない。社会のせいにはできない。これが本当の「自己責任」である。ドイツの哲学者カントの実践理性を、私はこんな風に理解しています。

 

個人と国家、自由と正邪善悪は、一筋縄ではいきません。こんなテーマは日曜日に書く事にしているので、また、こんな風に。

消費税率、エンゲル係数 ― やるべき議論で放置していること

前の投稿では、ただいま限定中のブログ『統計+経済学+趣味のブログ』で最多閲覧投稿を再掲しました。今日は、最近の分では自分なりに気に入っているものを公開したいと思います。

 

◇ ◇ ◇

 

多少旧聞に属するが、消費税率引き上げに関する記事を一時保存フォルダーにとってあった。以下がそれだ。

産経新聞社とFNNの合同世論調査では、来年4月の消費税率8%への引き上げに対する容認論が強まる中、女性は男性に比べて反対論が強く、男女差がくっきり表れた。特に、子育て世代とされる30、40代の女性は増税に反発する傾向が際立っており、消費税増税が子育て支援の強化につながらなければ反発はさらに大きくなりそうだ。 
調査結果を男女・世代別に分析すると、消費税率引き上げと経済対策を表明した安倍晋三首相の方針に対し、男性の54・0%が「支持する」と答え、「支持しない」の40・8%を大きく上回った。一方、女性は「支持する」(48・2%)と「支持しない」(46・4%)で評価が割れた。20代、30代、40代の女性はいずれの世代も「支持しない」が過半数に達した。
 消費税が増税される来年4月以降に家計の支出を減らすかどうかについて、「減らす」と答えたのは、男性では54・9%、女性は62・3%だった。女性のなかでは、20代の52・5%が「減らさない」と答え、「減らす」(44・3%)を上回ったが、40代は子供の教育費負担などが影響してか、72・6%が「減らす」と回答、世代間ギャップが浮き彫りになった。 
 平成27年10月に消費税率を10%に引き上げることに「反対」というのも、男性は58・0%にとどまり、女性は67・5%を占めた。女性は各世代で3分の2以上が税率10%に反対し、「賛成」は23・6%にとどまった。

(出所)産経新聞、2013年10月8日

収入一定で消費税率が上がれば、当然、増税分だけ出ていくお金は増えるわけだから、貯蓄を減らすか、購入数量を減らして消費金額を一定に維持するか、二つに一つか両方を少しずつ実行するしかない。

ただ、子供世帯の家計が苦しくなれば、孫の教育費や出産や進学、病気などの場合の経済支援、普段の仕送りなどの形で、年金を受給している親世代から子供世代への移転が行われるだろう。だから、今回の消費税率引き上げのかなりの部分は、親世代が節約することによって、負担を引き受けるのではないかと小生は予想している。負担がどこに落ち着くかは分からないが、確実なのは、国の財政収支が少々改善される。この点だけは確実である。

しかし、消費税率をたかが5%から8%に上げるという文字通りのマイナーチェンジにこれだけ騒ぐのは不自然である。厚生年金や国民年金の保険料も「税金」と呼ばれてはいないが税金と変わらないからである。その年金保険だが、年金積立金が少なからぬ額に達している。そしてその積立金は、保険料が引き上げられた後、なおも増え続ける-積立金が増えるというのは支給以上に保険料を徴収しているからだ-この年金財政見通しは厚生労働省のホームページでも解説されている。


シミュレーションによれば、今から30年後の2045年に積立金は最大値に達する。厚生年金で200兆円余り、国民年金で概ね10兆円程に達し、それ以降は徐々に取り崩しが進み、100年後には1年分の給付費を準備金として用意する状態になる。100年後に1年分の支払準備金を用意する状態になるのであれば、なぜもっと早い段階でそうしてはいけないのか。こんな疑問を持つ人も多かろう。そもそも最近の社会保険料率引き上げを、どの程度、国民は議論したのだろうか。積立金を増やすためには保険料アップが必要なのだという説明を国民は本当に了解したのだろうか。消費税を10%まで引き上げるのであれば、年金保険料率も見直すべきではないのか。なぜ誰もこの質問をしないのだろうか。保険料は、最後には自分のところに戻ってくるから上げてもいいのだ、と。若い人たちは本当にそう思っているのだろうか?

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昨日のビジネス経済学でも、なぜみんな議論しないのだろうという話題があった。それは「エンゲル係数」である。日本のエンゲル係数は他の先進国に比べて、現在、高止まりしている。日本人の暮らしに余裕がないのは、必需的な支出割合が高く、裁量的な支出に回す余地が少ない、特に食費の割合(=エンゲル係数)が比較的高いことが主因になっていることは、以前から指摘されている。もっともエンゲル係数が低いのはアメリカで15%程度だ。それからオランダが18%、ドイツが19%、日本は23%である(出所はここ)。生活水準が上昇するにともなって下がるはずのエンゲル係数であるのに、韓国のほうが22.7%と日本を下回っている。これが昨日の授業では話題になった。

小生: 日本のエンゲル係数をアメリカ並みに下げることができれば、日本の家庭は非常に豊かになります。たとえば年収が500万円の家庭のエンゲル係数が23%から15%に下がるとしましょうか。これは食費が40万円節約できることと同じです(分母は総消費であるべきで、これだと貯蓄を入れてるじゃないかとは言われるだろうが、要修正額は小さい)。毎年のボーナスが40万円増額されるのと同じ効果をもつでしょう。この40万円で、たとえばスポーツジムに入るかもしれません。芸術活動にお金を使うかもしれません。高級オーディオを買うかもしれませんね。翌年は好きな食器をそろえるかもしれません。母親はパートを減らして、子供たちと一緒にいる時間を増やすでしょう。こんな風に日本の家庭のエンゲル係数を低くすることは、政策技術的に可能なんですよ。何をすればいいと思いますか? 
学生: 食料品の価格を安くすれば出来るのではないですか? 
小生: 具体的に、そんなことが可能なんですか? 
学生: TPPを締結して、聖域5品目に切り込めば、可能ではないですか? 
小生: なぜマスメディアはこんな議論をしないのでしょう。以前から真っ先に話をされていたことなんですよ。2012年時点、日本の一人当たり名目GDPはドル換算後で韓国の2倍あるのです。にもかかわらず、日本の家庭は毎日の食費に韓国より高い割合のお金を使ってしまっている。エンゲル係数は生活水準の実感指数ともいわれます。これでは日本人が暮らしにゆとりを感じないのは当たり前です。格差拡大とか、労働市場のゆがみとは別に、暮らしの在り方そのものに余裕がないのですよ。

これまた、議論するべきだが、誰も何も言わない。音なしの構えである、小生にとっては、七不思議の一つなのだ。 最後の段階で出してくる<政府の隠し玉>なのだろうか。

 

オリジナル投稿日:2013年10月17日

 

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今日改めて読んでみると、日本の高いエンゲル係数(23%)をついている点、やはり本筋だと感じます。なるほどTPP構想について「深読み」するのは色々な観点から可能でしょう。日本の外交戦略からも安全保障戦略からも議論できるし、現代世界のビッグ・プレーヤー間の紛争の戦略という枠組みから論じる事も出来ます。しかし、日本のとる政策を議論するなら、まずは日本人の暮らしの観点からそのプラス面、マイナス面をとりあげて語るべきでしょう。マイナス面は、既に様々なメディアがとりあげています。負の影響を被る人たちの声は常に大きいのです。しかし、どんなプラス面があるのか、誰でも納得のいく説明は乏しいように思うのです。個別の家庭の立場からみても、プラスの効果は結構大きなものになる。そんな数字が話しの種にならないのは何故か。ちょっと不思議に思うので、今日ここに転載しました。

 

「国家百年の計を議論している最中に目先の損得を言うのは不適切だ」という言い方がよくされます。しかし、大概の場合、その種の「叱責」や「怒り」は、自分の利益を守るための欺瞞です。既にそこには損得勘定が入っています。ならば、大部分の日本人にとって、どんな結果になるのか、まずは利害得失の観点から直接効果をおさえていくのが理にかなった順序ではないでしょうか。