shamani1003's diary

統計と経済、ときどき美術のブログです

ブログ-記録より、むしろ生きている庭づくりだろうか

スパムコメントや管理者側の一方的な投稿削除にストレスが高じて『統計+経済学+趣味のブログ』を一般公開から限定公開にしました。当分の間はそうしようと思っています。

 

しかし、あれなのですね、一度世間に自分の文章を公開する面白さを経験すると一切閉じられた空間で、ただ書き続けるのが下らなく感じるようになるのですね。子供が幼子であったころからずっと日記を手で書き続けたものですが、その時はそんな気持ちは感じませんでした。ブログには社会的露出への衝動を心の中に形成する働きがあるようです。「知ってもらいたい」、「自分だけの思いなのか、ほかに同じ人はいないのか」と、そんな動機なんでしょうか。だとすると、ブログというのは孤独というのが、社会階層の上下を問わず、あらゆる個人の心を包むようになった現在という時代背景だから生まれてきたツールである。そう思ったりもしています。

 

そういうわけで、いまは閉ざしている古いブログで多数の人が閲覧した投稿をここで公開しておこうと転載したりしているのですね。ところが、気が付いたのですが、あたかも移植された草花のように、生き生きとしていた前の文章はここではどうも落ち着かない、というか血が通わない化石のような文章として自分の目に入ってくるのです。たとえば以下は、古いブログでは閲覧数ベスト2の投稿です。

 

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なじみ深い問題 ー 家門の継承

 
日経新聞の連続小説のタイトルは今は「黒書院の六兵衛」で今日が第54回。浅田次郎の作である。幕末、将軍の御側近くで護衛の任に当たる書院番士である旗本・的矢六兵衛が、実は借金苦から旗本株を金に換えて身を隠した前の当主の入れ替わりであるという話しにさしかかっている。

家門を継承し発展させていくのは、結構、大変な事業であり、日本人は跡目争いというものに興味を刺激される傾向をもっている ー というか血統に関心をもつのは(たとえゴシップ的興味にすぎないにしても)世界共通の現象であろう。新しくはダイエーを創業した中内家の没落が世の注目の的になった。古くは天皇家の皇位継承争い。

本日の朝刊に女性宮家創設につき二案が両論併記される方向になったとのこと。一案は三人いる内親王に限り宮家を一代限りで創設し、子は皇位継承権をもたないというもの。もう一案は、宮家は創らず、結婚による皇籍離脱の後も内親王の称号を使用させるというもの。この案については更に他の宮家の女王にも称号の使用継続を認めるかどうか、検討される見込みだ。

どちらにしても皇位継承権を新たに取得する人物は現れない。ここがミソである、な。ここを論ずると、議論が対立してまとまらない。そう踏んだのだろう。

しかし、意味がないよね。誰しもそう思うのではないか。次世代の男子継承者が悠仁親王ただ一人である点が懸念されていて、だから検討されている事柄であるのに、皇位継承者を増やさないという解決のしかたがあるものか。無意味である。単に女性に称号を与え、一生皇族として働かせる名分を作っているだけである。内親王は行動の自由を奪われるだけである。文字通りの<ご都合主義>。どこに生まれるかは運命が決めるが、それにしても悲惨ですな、こりゃ。

五代将軍徳川綱吉は子に恵まれなかったので、紀州藩に嫁がせた娘・鶴姫の夫である徳川綱教を次期将軍にしようとした。子ではない娘婿である。その時、綱吉には若くして世を去った実兄・綱重の遺子である甲府宰相綱豊がいたにもかかわらずである。これには流石に水戸藩のご隠居である徳川光圀が反対したという。それはそうだろう。血のつながりの濃さによって継承していくのが<世襲>というシステムの本質なのだから。しかし、もしこれが、娘・鶴姫の子であったら水戸黄門も反対しきれなかったのではないか。これが<女系将軍>というものだ。結果としては、肝心の紀州藩主綱教が死んでしまい、兄の子である甥が六代将軍家宣になるのだが、こうしてみると幕府内に<女系将軍>が後を継ぐという事態にそれほどの拒絶感はなかったのではないか。そう思わせる逸話であろう。

確かに江戸幕府は本家と血のつながりが薄く、単に能力があるという理由で徳川慶喜が本家を継いだ時点で、実質的には滅んだと語る向きが多い。正統は確かに大事だ。しかし家門の継承をはかるには、絶えないように工夫をこらして、広く認めておかないと、いつか絶えるのが確実である。
 
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浅田次郎の「黒書院の六兵衛」はもう単行本として発行される頃です。上の文章は、まだ新聞に連載されている最中に書いたのですけど、それをいま自分でまた読んでみても、もうその時とは考えることが違っている。だから何でしょうかねえ・・・ぴんとこないのは。それでも、こんなことはある。昔の作家が残した日記や手紙をいま読んでも、それはやっぱり面白いものです。有名な人物が世間に与えてきた印象とは違った心の中が知られる感じがして、同じ人間をみる感じがするのですよね。
 
どうも自分がかいた古い文章をどう再利用するか、その扱い方が分からずにいます。